聞きたいと言った祖母に連れられてボランティアが主催した、子供だけが集まった小さな演奏会。 祖母が、せっかくだから演奏してきなさいと推してきた。
そして渡されたのは“きらきら星変奏曲”の楽譜。 一枚、はらりと自分のケースから楽譜が舞う。 「こっちのほうが、面白そうじゃないか…タイトルの意味は?」 自信があるという、顔をしている。 「…まだあまり練習していないから自信はない。意味は…忘れる」 それは事実だったからその事実を述べる。 「…俺はなんとかなるから、これやろうぜ」 だが批判を肯定せず彼は、その曲を推して変更となった。 「曲目を変更します。曲名は…」
その指先が奏でる音色は優しく、 いつまでも耳に残っていた。
Oblivious
いつものように音楽棟の練習室に向かう最中、ピアノの音色が聞こえた。
普通科であるにも関わらず、ピアノの腕は音楽科顔負けだ。
素直な感想がそのまま、口から毀れ出る。 「…それは褒めているのか?」 本人の声がした。 「聞いていたのか。独り言を」 それは窓際から上半身を出していた。 「近くで言われたら、嫌でも聞こえる」
くるりと、後ろを向いて歩き出そうと足を反対側へと向けた。 「待てよ」 呼び止められ、足を止めた。
眉間に皺を寄せて、振り返る。 「…お前は、何でそんな不器用な表現しか出来ないんだよ」 ため息をついて言って来る。 「俺は本当のことしか言わない。賛辞をおくったまでだ」 「ああ、そうかよ。それで、ここを使うのか?俺の後にお前が入っていたみたいだが」 「…君がまだ使うなら俺は屋上に行こうと思うが。弾き足りているとは思えない」 何故か、邪魔をしたくないと思って。 「お前が取ったんだから、使えばいいじゃないか」 特に理由も他意も無いのにも関わらず。 「室内で弾く気が起きない」
「まあ、使わせてくれるってんなら俺はありがたく使わせて頂くよ」
言葉を聞く前に、後ろを向いて屋上へと足を向けた。 ドアを開けるとそこには誰も居なかった。
ヴァイオリンケースをベンチに置いて、譜面台を組み立て始めるとピアノの音色が聞こえた。 窓を開けたまま弾いているのだろう。 「エチュード1番 変イ長調 エオリアンハープ…土浦か」 彼が好むショパンの練習曲。 “エオリアンハープ”と呼ばれている楽器のような音色だとシューマンが言った言葉から名づけられたと言う。 それは風のように涼やかで、緩やかでも、強く。 でも決していつも同じではなく、様々なものを吹きあげたり巻き込んだりしている。
「…まるで、本人のようだ」
「…何だ?」
何故、そのような言葉が聞こえたのかは分からなかった。 屋上に行くと、今度は彼が先に居た。 「なんだ、お前またここで弾くのか」 「…別に何処で弾いてもいいだろう」 反射的に、不機嫌そうな顔をしてしまう。 「本当にお前は音楽が好きなんだな」 呆れたというものいいだが、表情は笑っていた。 「何故、君は好きじゃないかのような言い方をする」 その態度が、僅かだが気に入らなかったので強く返す。
その言葉で、俺は我に帰った。 「…君は、今まで何故隠していたんだ?」 「ピアノのことか?」 「ああ…音楽をより深く求める君は何故、今まで表に出ていなかった」 「…好きだったからこそ、出たくなかったんだ」
“一回”という言葉が、胸に刺さる。
本当に一回しか出ていないのだろうか。
たった少しの出来事が、後にずっと残る。 だからこそ、今学んだことを後悔しないようにするのが、本当に上を目指せる人間。 「…それで、今は?」 分かっていることを、あえて聞く。 「今は…弾くのが楽しい。聞いてもらいたくて仕方が無い」 予想通りだったが、その言葉は嬉しかった。
彼が去った後、屋上の空に “出来るさ。だって俺は…信じているから” また、自分だけに声が聞こえた気がした。
「…屋上に居たのを見たが」 「ありがとう…どうしたの?」 「ああ、いや…土浦は何故…今まで、弾かなかったんだ?」 思わず、疑問に思っていたことを口に出してしまった。 「ああ。隠していたこと?土浦君、私を助けてくれたから参加するようになったんだよね。 日野は今まで表で弾いてくれなかったことを残念そうに思っているという顔をしていた。 「人前で弾かなかったというのは…?」 「…でも私、見たよ」 「…見た?」
その話を聞いてしまったからか。 日野に店の場所を聞いたからか。 通り道だったからか。 足は自然と店のほうへと向いていた。 カラン、とベルの音が鳴る。 小さな店だが、置いてある楽譜の量はかなり多かった。
「ええ…」 「何をお探しに?楽譜ですか?それとも…」 店の雰囲気が優しいように。 店長も優しく笑い、客を迎えてくれる。 「あの…ピアノの…」 「ピアノ?」 「土浦が昔弾いていたという、コンクールでのピアノの映像を見せてください」 自分でもそんなことを言うなんて、思わなくて。 「…君は、友達かい?」 「はい」
学院のコンクールで初めて弾いたショパンの…幻想即興曲。 ショパンの思いつき…即興は、奏でるたびに様々な世界を魅せる。 ただの即興曲は後から幻想という名前がついた。 そして、これは表に出ることは本当は無かったと言う。
音色も旋律も。
「…綺麗だ」 素直な気持ちが、言葉が、零れる。
演じることはいつだって、全力だ。 「…この後から、出なくなったんですね」
「話を…聞いたのかい?」 「いえ…このことは誰にも言うつもりはありません。本人は嫌がるでしょうから」
真実を知ってしまった今は… 聞いてしまった今は、痛いくらい気持ちが分かってしまう。 自分でさえ、そのようなことを気に止めなくとも。 それでも何かしら影響はあるだろうと想った。 「ああ…でも一度だけ…その後だけど何かのボランティアでかな。演奏を頼まれてやっていたね」 店主はそうえいばと、思い出したという顔をする。 「急病でヴァイオリンを弾く子がいなくて…そのあと誰かが代わりに弾いてくれたね。
「残念だけど映像は無いかな。あったら分かるから」 「そうですか…」 その時演奏したものは…何だったのだろう。 “きらきら星変奏曲”は、何に変わったのだろう。
俺は、何を忘れている? 記憶なのだろうか。色鮮やかな光景だった。
「…音色は答えてくれるから。好きなことに素直に返してくれる…だから大丈夫」 その、絶対の自信はどこから来るのか分からなかったけど。 「大丈夫…?」
夢は、いつも見ない。 だからこそ、確信できた。 「……これは、記憶で…現実だ」 涙が、一滴だけ零れる。
また次の時間だったのだろう。 丁度、楽譜を畳んでいた所だった。 「最近よくお前と合うな…どうしてだろうな」 会っても口喧嘩ばかりなのにと付け足して、苦笑いをする。
君は、目を見開く。
甦る、忘れていた感情と旋律。 俺は忘れない。 あの時感じた、喜びを。 「輝く星を奏でるより、聞き手すら忘却することをあえて選んだ…奏者“土浦染太郎”」
だから自然に嬉しいと思うことを表情に出せたのだろう。 いつもなら、絶対といっていいほど出来ないのに…不思議だった。 君は驚いた顔をして、口元をあげ笑う。
「…消えてしまうからこそ美しい、一瞬の輝きを描き奏でよう」
その指先は白い鍵盤に触れて
楽譜からだけではなく
言葉を、意味を、
“思い出に留めて欲しいから”
生まれて往くピアノの音色とその指先と、
“真っ暗な世界を、彩るんだ”
ヴァイオリンを持つ指先で、その世界を描いた。
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