いつも、何を考えているか分からない。
そう言われていたという。

いつも何かを考えているから?
それとも何も考えていないから?


否。


そんなことを問うこと、考えることすら無意味だ。

彼の世界は、彼の想いは。

いつも音に囚われていたのだから。

















 

Scioltamente

君は、自由を知る為のたったひとつの鍵を持つ人。


























一生、このまま変わらずこの世界の小さな箱庭と籠の中で、
決められた定義の中で生きていくものだと思っていた。

それに何の疑問も反対の意思も持たなかった。


何故なら。


籠の中から空を見る小鳥は、その世界の本当の広さなんて知らないのだから。


小さな体に大きなチェロを背負った1年生。

生きる全ての中心に音楽が存在し、それがあれば生きていけると。

自由に、音色だけ求めて。


対照的に常に広い世界の何処かにふらりと現れてまた何処かへ行くというというような、存在だと想っていた。


「こういったコンクールで、皆さんと仲間になれて…楽しかったです」

そこそこは、楽しめたとは想っているが。
そんなことはいつものように口に表情にも出さなかった。

「…僕も、仲間が増えて嬉しいよ。これからも一緒に頑張ろう」

社交辞令のように、俺は手を差し出す。

「はい…これからも宜しくお願いします…」


触れた瞬間、何かがチクリと背を差したような気がした。


「…こちらこそ」

本能が、何かを警戒したのだろうか?

その警戒が悟られないように、静かに手を離すと、彼も離した。


…今までは、そんなことすらなかったのに。
何故、今?

「…僕ちょっと呼ばれてたんだった。
また今度…何かご縁があったら演奏しましょう」

気分が落ち着かない。
今すぐ、目の前から居なくなってくれと想った。

「楽しみにしているよ」

そう、笑い答えると首を傾げる。

「先輩…その音も素敵ですけど、僕は音色のうらの、本当の音が…聞きたいです…」

いつもの、眠たそうな目が。

「…なんの、ことかな?僕は、僕だよ?」

いつもと変わらないのに、真実を。

「…ええ、先輩は、柚木先輩です…」


見抜いていたような気がした。

「…失礼します」


内心なんて分からないとは分かっていても焦ってしまっていた。

そんな焦りなど知らない彼は、そう言ってふらりと、中へと戻っていった。


「…俺らしくもないことだな」


前髪を書き上げて、ため息をついた。


きっかけは些細。
だが本当の“空”を知る鳥に出会ってから、俺は苛立ちを覚えるようになった。
近寄らないで欲しいという思いと、知りたいと言う考えが俺の中で鬩ぎ合う。


「…音楽家の思ったこと。感じたこと。そういった解釈は…必要です。
譜面から読み取って、自分の感情を“演じる”。それが“演奏者”だと僕は考えています」

そんな思いなど、知らないとばかりに彼は俺に近づいてくるのが分かる。


「志水君ってすごいよなあ。俺なんて『いつだって楽しく!』がモットーだから単純かつわかりやすいっていわれるよ」

「火原先輩は、それでいいと思います…それが先輩の音楽ですから」

「そうかなあ?」

「はい。音楽は…自分を表現する言葉の一つだから…それでいいと思うんです」

いつも語ることが少ない口が、少しだけ雄弁だと思った。

「なんだか、大人だね」

歳が下でも、同じ歳より考えはより高みを目指していたから、俺も素直に称えた。

「そうやって考えるようになったのも、コンクールを通してからです。今まで、その譜面から読み取り、ただ正確に惹けばいいものだと想っていたんですけど。それだけじゃ駄目だと…気づきました」

そう言ってふわりと、笑う顔に裏がない。

「それだけでは駄目って?」

火原が尋ねると、やはり素直に答える。

「心を奏でるんです…自分だけでなく、他人を想うように」


だからこそ彼の言葉は…何の嘘もつかないから心地がよいと思えた。


「コンクールが終わってあまり会うこともありませんでしたが…久々に会えて、しかも一緒に演奏できて楽しかったです。僕のワガママに付き合ってくれてありがとうございました」

ぺこりと、頭を下げる。

「全然かまわないよな、柚木。俺たちも受験勉強ばっかじゃ持たないもん」

火原も屈託なく笑った。

「そうだね。いい気分転換にはなったね」

だからだろうか。
そのときは、自分も素直に笑ってみようと思えた。

彼と別れた後は、火原と帰りを供にしていた。

「志水君ってすごいよなぁ…」
「情熱は僕たちも見習いたいね」

お世辞ではなく、それは互いに考えは一緒だった。

「そうだね!…普通に出てきちゃったけど…またいつもみたいに練習室の裏あたりで寝ていたりして」

「ありそうだね」

以前、火原と二人で歩いていて蹴飛ばしそうになったことを思い出して笑う。

すると火原は何かを思い出したのか、叫んだ。
「あーっ!教室にプリント置いてきちゃった。悪い、柚木。俺戻るわ、先帰ってて!」

火原が反対へと体を向けた。

「わかった。じゃあまたね」

「また明日!」

手を振りながら走り出した火原を見送り先に帰ろうと振り返ったとき、鞄に楽譜を入れ忘れていた気がしたので鞄を開け確認をした。

「…俺も忘れ物をしたみたいだな。楽譜が一冊抜けている」

楽譜となると、先ほど演奏した練習室だろう。
練習室へと足を向かわせたが、そこには誰も居なく楽譜も無かった。


そう考えると、持っている人物は一人しか浮かばない。
何処へ行ったのだろうと、とりあえず外へ出る。

「志水君…」


そこには、予想通り…その人物は芝生に倒れていた。

「…おはようございます」

俺が見ているのが分かったのか、その眠たげな目を擦りながら、あいさつをしてきた。

「おはよう。こんなところだといくら夏でも風邪をひいてしまうよ?」

それは事実であり常識だからと、俺が注意を促すとそれに頷いた。

「そう…ですね」

むくりと起き上がる。
すると、俺をを見つめてきた。

「………」

青い目が、ただじっと見つめてくる…無言で。

「どうしたの?」

その顔が、いきなり近づいてきたと思ったら唇に何かが触れた。

「……志水君!?」

驚いて、思わず固まった。

「何で、でしょうか?」

自分の行動に首を傾げる。
それは、此方の台詞だと思った。

「……なんと…なく?」

よくわからない突然の口づけを…
彼はなんとなくで片付けようとした。

「はい…」

寝ぼけているのか。
だがそれで済まされることではないだろうとさすがに反論する。

「なんとなく…ですむのかい?」
「そうなんです…理由は特に無いんです…ただ、そうしたいと想ったから」

理由もなく、そうであるからと。

本能の赴くままに従っている行動が、あまりにも自由すぎて怒ることを…忘れた。

「君は…意味をわかって言っているのかい?」

「…たぶん。いや、本当は、よくわからないんですけど。こんな風にしか僕は言葉は出ないから…音で表せたらいいんですけど…まだその言葉を表す音を、僕は知らないです」

そしてその言葉に、興味が沸いた。
理由が普通では、考えられないくらいだからだろうか。

「音で表れるものなのかい?」

「旋律は…言葉より饒舌で嘘をつかなくて…正直ですから一番伝えやすいのですが…すみません」

「君は、どうしてそう想うんだい?」

「確信はないので…なんとなく、です。奏でる音楽はその人の音。それは性格であり人生でもある。だからでしょうか…柚木先輩が奏でる音楽は静かだけど華やかで…それはただ綺麗なだけではないと思うんです。音楽が…“その音色に至るまでの過程”に僕には興味がありました」

好きなことだからこそ多くを語り出す、偽りなき言葉。

「最初は心の声。次はその感情」

それは流れるように、中に入ってきて。

「ただ、何度か聞いていくうちに…聴こえてくるんです。音が教えてくれる奏者の詠う声が。貴方の声を聞こえたとき、僕は驚きました…ふたつの、旋律が聞こえたから」

偽りだらけの鳥籠の世界に、響く。

「…ふたつ?」

「でも、それも貴方だと分かった…何か間違っているでしょうか?」

彼は、聴こえたのだ。

「いいや、間違っていないよ」

本当の、心が。

「…そう思っているうちに。音楽だけではなくて、先輩がとても気になりました。
何でそうなのかなって。想うほど、旋律は増えて僕の中で何かを求めて…迷うんです」

伝える言葉は、けして華美でも優美でもない。

「増える…というのでしょうか?
ひとつ迷ったら、もうひとつが生まれる。ふたつ迷ったら、ふたつの何かが生まれる。
そんな、繰り返しなんです」

しかし素直に答えるから、何の裏もないからありのまま受け止められる。

「もっと、聴いていたいと。もっと、知りたくて触れてみたいと想う心が…」

自分が醜く思えるくらい、眩しい。

「………」


確信した。
あのときの感覚は警戒ではなくて。

「僕は“先輩の居る世界の音”をもっと…聞きたい、です」

手が、指先が、俺の顔に触れる。


これは“自分だけのたったひとつ”を見つけた、瞬間。


「その悲しむ心も、喜びの心も。貴方の音を…聴かせてください」


分かってしまった。

それは、自分にとって『全てを変えてしまう』ものだと気がついてしまった。


鍵の音と足音が聞こえる。


「…君は…僕の自由…」

顔が近づいてくる。


“唯一の世界だった”箱庭に、もうひとつ。

「…どうかしましたか?」


「いや、何でもないよ」


鳥籠の扉に指先が触れる。


「もっと、先輩を…知りたいです」

また、軽く口づけられる。


今度こそ抵抗なんて出来なかった。

籠にかかっていた錠に、鍵が差し込まれて

「…やっぱり、先輩の存在が奏でる音は…僕にとって…心地よい旋律です」

そう言った君は、天使の如く無邪気なまでの笑顔で開け放たれた扉の向こう、目が眩むような広い世界を見せ連れ出した。


「…そう」





きっと君はまだこの連れ出したという真実に気づいていない。

だから俺は何もまだ言わなかった。





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