いつも、何を考えているか分からない。 いつも何かを考えているから?
彼の世界は、彼の想いは。 いつも音に囚われていたのだから。
Scioltamente 君は、自由を知る為のたったひとつの鍵を持つ人。
一生、このまま変わらずこの世界の小さな箱庭と籠の中で、 それに何の疑問も反対の意思も持たなかった。
生きる全ての中心に音楽が存在し、それがあれば生きていけると。 自由に、音色だけ求めて。
そこそこは、楽しめたとは想っているが。 「…僕も、仲間が増えて嬉しいよ。これからも一緒に頑張ろう」 社交辞令のように、俺は手を差し出す。 「はい…これからも宜しくお願いします…」
本能が、何かを警戒したのだろうか? その警戒が悟られないように、静かに手を離すと、彼も離した。
「…僕ちょっと呼ばれてたんだった。 気分が落ち着かない。 「楽しみにしているよ」 そう、笑い答えると首を傾げる。 「先輩…その音も素敵ですけど、僕は音色のうらの、本当の音が…聞きたいです…」 いつもの、眠たそうな目が。 「…なんの、ことかな?僕は、僕だよ?」 いつもと変わらないのに、真実を。 「…ええ、先輩は、柚木先輩です…」
「…失礼します」
そんな焦りなど知らない彼は、そう言ってふらりと、中へと戻っていった。
そんな思いなど、知らないとばかりに彼は俺に近づいてくるのが分かる。
「火原先輩は、それでいいと思います…それが先輩の音楽ですから」 「そうかなあ?」 「はい。音楽は…自分を表現する言葉の一つだから…それでいいと思うんです」 いつも語ることが少ない口が、少しだけ雄弁だと思った。 「なんだか、大人だね」 歳が下でも、同じ歳より考えはより高みを目指していたから、俺も素直に称えた。 「そうやって考えるようになったのも、コンクールを通してからです。今まで、その譜面から読み取り、ただ正確に惹けばいいものだと想っていたんですけど。それだけじゃ駄目だと…気づきました」 そう言ってふわりと、笑う顔に裏がない。 「それだけでは駄目って?」 火原が尋ねると、やはり素直に答える。 「心を奏でるんです…自分だけでなく、他人を想うように」
ぺこりと、頭を下げる。 「全然かまわないよな、柚木。俺たちも受験勉強ばっかじゃ持たないもん」 火原も屈託なく笑った。 「そうだね。いい気分転換にはなったね」 だからだろうか。 彼と別れた後は、火原と帰りを供にしていた。 「志水君ってすごいよなぁ…」 お世辞ではなく、それは互いに考えは一緒だった。 「そうだね!…普通に出てきちゃったけど…またいつもみたいに練習室の裏あたりで寝ていたりして」 「ありそうだね」 以前、火原と二人で歩いていて蹴飛ばしそうになったことを思い出して笑う。 すると火原は何かを思い出したのか、叫んだ。 火原が反対へと体を向けた。 「わかった。じゃあまたね」 「また明日!」 手を振りながら走り出した火原を見送り先に帰ろうと振り返ったとき、鞄に楽譜を入れ忘れていた気がしたので鞄を開け確認をした。 「…俺も忘れ物をしたみたいだな。楽譜が一冊抜けている」 楽譜となると、先ほど演奏した練習室だろう。
「志水君…」
「…おはようございます」 俺が見ているのが分かったのか、その眠たげな目を擦りながら、あいさつをしてきた。 「おはよう。こんなところだといくら夏でも風邪をひいてしまうよ?」 それは事実であり常識だからと、俺が注意を促すとそれに頷いた。 「そう…ですね」 むくりと起き上がる。 「………」 青い目が、ただじっと見つめてくる…無言で。 「どうしたの?」 その顔が、いきなり近づいてきたと思ったら唇に何かが触れた。 「……志水君!?」 驚いて、思わず固まった。 「何で、でしょうか?」 自分の行動に首を傾げる。 「……なんと…なく?」 よくわからない突然の口づけを… 「はい…」 寝ぼけているのか。 「なんとなく…ですむのかい?」 理由もなく、そうであるからと。 本能の赴くままに従っている行動が、あまりにも自由すぎて怒ることを…忘れた。 「君は…意味をわかって言っているのかい?」 「…たぶん。いや、本当は、よくわからないんですけど。こんな風にしか僕は言葉は出ないから…音で表せたらいいんですけど…まだその言葉を表す音を、僕は知らないです」 そしてその言葉に、興味が沸いた。 「音で表れるものなのかい?」 「旋律は…言葉より饒舌で嘘をつかなくて…正直ですから一番伝えやすいのですが…すみません」 「君は、どうしてそう想うんだい?」 「確信はないので…なんとなく、です。奏でる音楽はその人の音。それは性格であり人生でもある。だからでしょうか…柚木先輩が奏でる音楽は静かだけど華やかで…それはただ綺麗なだけではないと思うんです。音楽が…“その音色に至るまでの過程”に僕には興味がありました」 好きなことだからこそ多くを語り出す、偽りなき言葉。 「最初は心の声。次はその感情」 それは流れるように、中に入ってきて。 「ただ、何度か聞いていくうちに…聴こえてくるんです。音が教えてくれる奏者の詠う声が。貴方の声を聞こえたとき、僕は驚きました…ふたつの、旋律が聞こえたから」 偽りだらけの鳥籠の世界に、響く。 「…ふたつ?」 「でも、それも貴方だと分かった…何か間違っているでしょうか?」 彼は、聴こえたのだ。 「いいや、間違っていないよ」 本当の、心が。 「…そう思っているうちに。音楽だけではなくて、先輩がとても気になりました。 伝える言葉は、けして華美でも優美でもない。 「増える…というのでしょうか? しかし素直に答えるから、何の裏もないからありのまま受け止められる。 「もっと、聴いていたいと。もっと、知りたくて触れてみたいと想う心が…」 自分が醜く思えるくらい、眩しい。 「………」
「僕は“先輩の居る世界の音”をもっと…聞きたい、です」 手が、指先が、俺の顔に触れる。
これは“自分だけのたったひとつ”を見つけた、瞬間。
「その悲しむ心も、喜びの心も。貴方の音を…聴かせてください」
分かってしまった。 それは、自分にとって『全てを変えてしまう』ものだと気がついてしまった。
鍵の音と足音が聞こえる。
「…君は…僕の自由…」 顔が近づいてくる。
“唯一の世界だった”箱庭に、もうひとつ。 「…どうかしましたか?」
また、軽く口づけられる。
籠にかかっていた錠に、鍵が差し込まれて 「…やっぱり、先輩の存在が奏でる音は…僕にとって…心地よい旋律です」 そう言った君は、天使の如く無邪気なまでの笑顔で開け放たれた扉の向こう、目が眩むような広い世界を見せ連れ出した。
きっと君はまだこの連れ出したという真実に気づいていない。 だから俺は何もまだ言わなかった。
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