悲しみと喜びそれ以外があって、満たされるのが感情という名の存在。 その悲しみに嘆き涙枯れ果てた人に残るのは悲観と諦め。
(若くないから。そう言っていた貴方の声があまりにも響くから、僕は僕の中の貴方に尋ねるんだ)
(目を覆って、耳を塞いで。それでも…)
Sirena 死の痛み。乾いた涙を流す時、歌声は響き渡る。
「…痛っ…」 変な体勢で寝たのか、身体の節々が痛い。
しかし状況を認識するほど頭は働かなかった。 ポケットに入れておいたものを取り出そうとする。 「…落とした?」 首を傾けながら何処にいったかを考える。 「探し物は、これか?」 声が聞こえた方向を見ると緑のケースが、その手にある。 「…そうそれ………あ…」
「…たまたま、友人の付き合いで」 さすがに不味いとは想ったが、もう逃げることも出来ないので白状することにした。 「随分お付き合いするには悪い友人が居るようで」 だが昔の友人と会って、その後盛り上がってクラブで喫煙にアルコールを摂取し遊んでいたとまでは言えない。 「…顔が広いんです」 にこやかに、それを誤魔化すがバレていることは見越していた。 「ほう…まあオフだったから今回は見逃してやろう。面倒は御免だからな」 だが、それについて彼は追求することは無かった。 いいんだ…と思っていたが許されたからそれでいいかなと言葉を噤んだ。 「あの…僕はなんで金澤先生の家に?拾ってくれたんですか?僕が倒れそうな所とか補導されそうなあたりで」 その言葉に、唖然とする。 「お前…覚えていないのか?」 「…違うんですか?」 理由は、自分でも思い出せなかった。 「…とりあえず酒は匂わないが風呂貸してやるから入ってこい。昨日のままだと気持ち悪いだろう。服は貸してやる」 確かに、アルコールの匂いこそしないが、ほのかに煙草の匂いがしなくもなかった。 「えっと…ありがとうございます」
「…どうして、僕はこの家に来たのだろう?」 思い出せない記憶の底から昨日の出来事を手繰り寄せる。
「T’alluntane da stu core…」
苦しみながらも歌を紡ぎ出している貴方の顔が印象に残る。
その歌を聴いて理解できたのかどうかまでは分からないが、猫は餌を食べるのをやめて
シレーナとも言えるようなくらいの、“絶対の自信”を持っていたあの頃の彼はもう、居ない。
歌を聞いて惑わせなかった人間はいないことに絶対の自信を持っていたシレーナはオデュッセウスを引き込めなかったことで
だって、死んでしまったのだから。
「歌いたい気持ちがあっても、もう戻らないんだよな」 そう言って、空を見上げる貴方の横顔を見たとき。 「…………っ!」
貴方が悲しみ憂う顔はとても、美しく見えて。 息を止めてしまうくらい、その瞬間だけが僕の目に焼きついて離れなかった。
着替えは持っていたからロッカーにさえ放り込んでしまえば“そういった”問題はなかった。 レストランで軽く食事を取ってからクラブへと足を向けていた。 「再開に乾杯」 二人でジンの入ったグラスを合わせる。
「君こそね。相変わらず遊んでいるみたいだね。刺されないように気をつけてね」 再開の喜びと皮肉を混ぜる。 「お前に言われたくない。一人を追ってそこまでやるやつなんて早々居ないからな」 「一途なんだよ、僕は」 「そうとも言うな。それで最近何があった?聞きたいな葵の近況」 「今は……」
盛り上がれば、盛り上がった分だけ酒は進む。
それを見た友人が気にかけてくれた。 「大丈夫か?」 ふらつくが、少し歩けばアルコールも抜けて覚めるだろう。 「うん。それに今日は帰らないっていってあるから心配ないよ。君は?」 「俺も大丈夫だが…。ただちょっとこれから仕事があってね」
「まぁね…オトナの遊びを少しするだけだよ」 本当に相変わらずだ。 「程ほどにね」 「お前こそな。遅れなくて悪いが、無事に帰るように」 申し訳けなさそうに友人は謝る。
「ああ」
「うーん…酔っているみたいだし少し何処かで休んで…あれ?」 歩いていると少し先に、見たことがある人が居た。 「せんせい…」 心臓が、跳ね上がるのが分かった。 そこは金澤先生のマンションだったのだろう。
「加地!?お前なんでこんな時間にこんな所に…」
「先生の部屋、一晩だけ泊めてくれませんか?」
断るとは言わない。 「そんなこと、言えないでしょう。それに…」 「それに?」 これは、汚い手だけど。 「このまま放っとかれてしまったら、誰か知らない人にお持ち帰りされてマワされてしまいます…」 脅迫じみたことを言わなくても、泊めてくれると知っているけど。 「…物騒なことを言うな」 「事実だと思うんですが。判断能力が欠けてきてますし」 「あー…分かった。だから、離せ。動けない」 同意してくれた。 「ありがとう、先生」 身体を離して、軽く頬にキスをした。
僕は、こうして彼の部屋へと転がり込んだ。
水音が響く。 頭に当たる湯で、目を覚ます。 「…なんか、とんでもないことをしてしまったような。いや、でも何で…」
身体を拭いていると、記憶がまた蘇りはじめた。
「大体、普段吸わないだろう。酒もそこまでやっているとは思えない」 「まあ…たまにですね」 「…しかし、こんなマークのものを見栄なんか張って吸うなよ」 指したのは、ドクロのマークが示す死という名の煙草。 「…僕は気に入ってるんですけど」 「粋がるのも程々にな」 ため息をついて、彼は言った。
実際それはとんでもないことだと分かったが、止めることが出来なかった自分にも驚いた。
(こんなにも気になるなんて…あの一瞬だけでの一目惚れして僕はもう恋に落ちてしまったんだな) 自覚するのは、簡単なことだった。
「やっとあがったか。コーヒーでいいか?」 「あ、おかまいなく…」 風呂に着替えまで借りて、これ以上何かしてもらうのは正直気が引けた。 「気にするな。ついでに朝飯食っていけ…と言っても大したものはないけどな。 食卓には、確かに二人分乗っていた。 「…戴きます」
フォークの音が響く。
「美味しい…」 卵の味付けが程よくコショウが振られていて、半熟独特の蕩ける具合が丁度良かった。 「それはよかった」 嬉しそうに笑う、貴方を見ると。
朝食を食べ終わって、一休みにと残ったコーヒーを持ってソファに座った。 「本当にありがとうございます…昨日は、申し訳ございませんでした」 「…思い出したのか?」 「ええ…もう本当に恥ずかしいです…」 貴方は、煙草を手に取り取り出す。 それは、ロミオとジュリエッタの絵が描いてある珍しい煙草だった。 「…珍しいものを、吸っていますね」 「たまたま、見かけてな。普段はもっとポピュラーなものを吸っているんだよ」 机に置いてあったマッチを取り出し、火をつける。 「葉巻がお好きなんですか?」 その煙草は本来は紙巻ではなく葉巻だったと知っていることをつい、口にしてしまった。 「お前…」 相当吸っているのだろうと思われたから、それはないのだと一応弁明をする。 「パッケージが好きなんですよ。だから、たまたま覚えていただけです。実際そんなに吸いませんから」 悲恋というテーマについても少し思うところがあったからとも付け足そうと思ったが、
“先に死ぬより、供に殺しあって死ぬほうがいい”なんて言えない。
「返しては欲しいんですけどね、僕の煙草」 「それは駄目だな。俺が戴く」 「…残念」 さすがにそれはしょうがないか、と思い取り返すことを諦めた。
吸った煙を吐き出して、僕に尋ねて来た。 「…それ、考えたんですよ。さっき」 カタンと、持っていたカップをテーブルに置く。 「理由は?」 至極明確な、理由を隠すことなく貴方に告げようと僕は思った。 「…僕は、貴方が好きになってしまったから」 「は?何を言って…」 唖然とする貴方に追い討ちをかける。 「僕は貴方が好きだ。悲しみに溢れた顔も、歌うことができないその声もすべてが気になって仕方なくて」 だけどこの言葉だけでは貴方は僕を一瞬の興味があるようにしか見てくれない。 「考えれば考えるほど、貴方が気になっていた」 本当に見てくれる瞬間は未練への別れを告げたとき。 「そこで、気付いたんです。貴方のことが、好きだと言うことに」 「何故、出会ってそんな間もないお前はそれが自覚できる?」 厳しい顔で、貴方は聞いてくる。
そう、その目でもっと、僕を見て欲しい。 「若い過ちだ、今の言葉は忘れてやるからもう帰れ」 冷静を保とうと、僕を遠ざけようとする。 だけど、それはもう僕が“意識”に入っているという意味でもある。
一口と煙を肺に入れて貴方は煙草を灰皿に押し付けて火を消した。 「言っただろう。帰れと」
苛立ちが、分かる。 理解が出来ないことに、理解を求めても。 その先は決して相容れぬ線だと分かっているからこそ、今こうして苛立っていることも。 分かるからこそ、隠せない。
「…先生」 僕は立ち上がると、向かい合っていたソファから、彼の前に立つ。 左手を貴方に伸ばしその頬に触れる。
「貴方の悲しみを…ほんの少しだけでいいから僕に分けてください」 「…知ったような口を聞くな、高校生が」
とても、不愉快だろう。
でも、これは貴方が過去と別れるためにわざと貴方に嫌な思いをさせているなんて決して言わない。
「…若いから、失礼なことも言える。僕には世界を知らないが故の見えない鎖やしがらみがないから僕は言えるんです」 そうしないと貴方は僕を見てくれないでしょう? 僕はそれを知っているから、悪知恵を働かせるんだ。 「…大人をからかうな」 頬を離した左手で貴方の指先を絡め取り、 「僕は、いつだって真剣です」 右手を貴方の背に回して、 「離れろ…」
もう、僕から目を離すことはできない。
“関わりたくない。傷つきたくないから、誰とも触れ合いたくない”
僕は心の奥底まで――― 深く深く…抉るんだ。
驚いた顔が、見えるようだ。
「僕は、貴方を変える為に、貴方を好きになる為に…此処に居ます」
でもあなたは鈍いから。
きっと強がって、静かに流すのだろう。
「最初は傲慢だって、エゴだと思ってくれていいから…少しずつでいいから僕を見てください…紘人さん」
「…僕の前だけでも泣いて下さい。これは僕たちだけの秘密にしますから」
“シレーナが、もう一度歌うために”
――――涙。
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